Modified: Monday, June 19, 2006

2006年4・5月の日記ぢゃないけど

2006/05/31(水)激痛との戦い・鎮痛剤と友達2

前回からの続き。先々々週のことである。不注意で目を傷つけてしまった。目を開けることも閉じることもできない。眼球が動くと激痛が走るので、視線を動かすことができない。どうしようもない。鎮痛剤を飲んで痛みと戦う。もちろん仕事も休んだ。ここですごく不思議なのだが、テレビを見ることだけはあまり苦痛がないことに気づいた。「うす目を開けて1点をぼーーっと見つめている」という状態がいいようだ。鎮痛剤を飲んでベッドに寝てテレビをぼーーっと見る〜そのうちにうとうとと眠る〜鎮痛剤が切れてくるとまた激痛〜仕方ないのでまた鎮痛剤を飲む〜寝てテレビを見る〜うとうと〜というジャンキー?のような生活になってしまった。ところが、これがなんとなく快感(やばいぞ!) 。録りためたまま見ていないビデオがアホほど!あるので、それを見ながらうとうと。と、めっちゃ怠惰な時間を過ごした。適当に見終わったビデオテープは順番に捨てた。医者の言ったとおり2日間で痛みは嘘のように消えた。3日目の朝の爽快だったこと!どうやら疲れがたまっていて「本当になーーんにもせず!ゆっくり休みたかったのだなあ」と感じた。

2006/05/29(月)激痛との戦い・鎮痛剤と友達

日記の更新がめっちゃ滞ってしまった。楽しみにしている方々には申し訳ない。少しばかり言い訳などに付き合っていただきたい。先々々週のことである。普通ならあり得ない状況で右目を怪我してしまった。いくつかの荷物を持っていたのではあるが、郵便受けから郵便物を取り出すという日常的な何気ない行為であったはずだ。何気ない行動であるからこのようなことが起こるのだろうか?1通の封筒の角が私の右目を直撃した。その時は「あっ痛っ!」ぐらいの感じしかなかったのだが、少しずつ痛みが増し、どんどん充血していった。その日は仕事があり、眼科に行く時間が取れなかったのだが、時間が経つにつれ激痛に変化し、痛々しく腫れ上がった。その日の夜はとりあえず鎮痛剤を飲んで寝ることにしたのだが、次の日の朝、病院が開くまでの時間はむちゃくちゃ長く感じられた。やっと!診察してもらった、その時の医師の冷静な言葉も忘れられない。「あー、これは痛いでしょう。黒目のド真ん中ですよー。かなり思い切りいってますねー。これは痛いわー」と、怖ろしいことを「さらっと」言ってくれた。そして2日間は痛みが続くだろう。約1週間でだいたい治るであろうと予想してくれた。致命的な状況?でないことが分かり、薬を入れて処置をしてもらったら少し楽になって一応の一安心。と思いきや、治療の時の麻酔が切れたとたんからめっちゃ激痛となり、それからの2日間はその「激痛との戦い・鎮痛剤と友達」になった。目を開けることも閉じることもできない。眼球が動くと激痛が走るので、視線を動かすことができない。「メシを食う」という一見簡単そうな行動もかなり視線を動かしていることをあらためて気づかされた。長くなりそうなので続きます。

2006/05/02(火)高田延彦「男だ!」のひみちゅ3

このシリーズは敬称略。2002年11月24日 PRIDE23のリング上、高田の引退試合において「高田延彦 vs 田村潔司」7年越し因縁の師弟対決は実現した。入場してきた田村が赤いキャップを脱ぐと、まるで新弟子時代を思い起こさせるような丸刈り頭が現れ、その気合いは半端ではないと感じさせる。それだけでも観客の興奮は高まるばかりであった。ところが、試合が始まると一転、因縁どころかスポーツライクで清浄な空気がドームを包み込んだ。観客も固唾を飲んで試合を見守る。田村はローキックを集中してじわじわと攻めるが、途中、右ローのつま先が、高田の下腹部を直撃してしまう。倒れ込んだ高田は、額に脂汗を流し、なかなか立ち上がることができない。「またもここで試合は中止か?」とまで思われた。5分近く待って、やっと高田が立ち上がる。レフェリーの指示で両者は向き合って揃って礼をし、試合続行。ここでも因縁ムードはみじんも感じられなかった。私の勝手な見方かも知れないが、田村はグランドでのパンチを振り落とそうとはしていないように思えた。グランドになると、自ら離れて高田を立たせ、またスタンド状態から試合を続ける。という流れ。それは「かつての師匠の顔面にはパンチを振り落とせない。」という「男の美学」があったのではないかと思う。「田村、お前、男だ!」ああ、また続いてしまった。

2006/04/27(木)高田延彦「男だ!」のひみちゅ2

またも前回からの続き。このシリーズは敬称略。かつて高田延彦と田村潔司は「UWFインターナショナル」なる格闘技団体において師匠と弟子の関係であった。高田が「プロレスとは違う格闘技団体」として旗揚げ、主催する「UWFインター」であったが、ある時経営的にかなり困窮し、団体の「延命処置」の為、止むを得ずプロレスの老舗であり高田の古巣「新日本プロレス」と対抗戦を行うことにしたのである。それこそが1995年10月9日東京ドームでの 「新日本プロレス」対「UWFインターナショナル」の全面対抗戦であった。(「切れてないですよ〜」が生まれた日だよ)ところがその時、団体内で唯一「対プロレス」を拒否したのが田村だった。それは自らの格闘技へのこだわりか、UWFインターのリング上での「高田さん!俺と真剣勝負をしてください!」という田村の爆弾発言からも彼のいらだちは察することができた。その後、結局袂を分かち、他団体「リングス」への移籍などの紆余曲折があったが、7年が過ぎた2002年11月24日、高田の引退試合の対戦相手に「今だ残る因縁の相手」として田村に白羽の矢が立った。「高田延彦 vs 田村潔司」7年越しの師弟対決が実現したのである。皆さん超マニアックな話でごめんなさい。この話、もう少し続けさせて下さい!出てこいやー!

2006/04/24(土)高田延彦「男だ!」のひみちゅ

さらに前回からの続き。今回も敬称を略す。クリームシチュー有田が、よく高田延彦のモノマネをしているからではないだろうが、格闘技に興味がないひとでも「出て来いやー」と「男だ!」はご存知ではないかと思う。しかしながらこの「男だ!」も、実は「切れてないですよ〜」の名言が生まれた1995年10月9日に起因しているということを知る人は少ないであろう。「男だ!」の名言が生まれたのは2002年11月24日東京ドームPRIDE23のリング上である。高田延彦の引退試合、かつての弟子、田村潔司のカウンターパンチに完全失神K.O.で敗れた高田は試合後もしばらくは立ち上がることができなかった。その後、セコンドに支えられてやっと立ち上がった彼は、それでもマイクを持ってパフォーマンスした。「田村、今日はこのリングによく来た。嫌な役をよく引き受けてくれた。田村、お前、男だ!」強力に華のある高田延彦だからこそ生み出せたこの名言!「男だ!」誕生の瞬間であった。マニアックなこの話、まだまだ続くんですけど、大丈夫でしょうか?

2006/04/22(土)切れてないですよぉ〜2

前回からの続き、今回も敬称を略す。クリームシチュー有田哲平の「ふうっ!ポカしすぎた!」という、超マニアックな佐々木健介のモノマネがあるが、それも「切れてないですよ〜」の名言が生まれた同日、1995年10月9日東京ドームでの出来事である。「長州力 vs 安生洋二」戦の後、第6試合に登場した佐々木健介であったが、長州力の公開処刑に触発されたかのように完璧に格下と思われる相手、垣原賢人をいたぶりにいたぶり続けた。ところが、一瞬のミスで逆転され、惨敗してしまったのだ。そして試合後の控室の佐々木健介。悔しさを隠せない様子で落ち着きなく歩き回り、中空を見つめ、一言!「ふうっ!ポカしすぎた!」これもプロレスファンにとっての忘れられない名言となって残った。因みに私の認識では「切れてないですよ〜」のギャグも現在では長州小力で有名ではあるが、いち早くマニアックに使っていたのはクリームシチュー有田であったような気がする。「とんねるずのみなさんのおかげ」の番組で不定期に放送されている「細かすぎて分からないモノマネGP」のアシスタントロボット?を有田が担当しているのも、そのあたりの背景があるって事を知っておいていただきたい。ちょっとマニアックすぎますかね。

2006/04/20(木)切れてないですよぉ〜

人気のお笑い芸人、長州小力(本日の本文は流れを重視して敬称略)のギャグ?であるが、みんな全くわからずに使っているようなので、おせっかいながら説明しておきたい。それは1995年10月9日東京ドームでの出来事である。 その日は「新日本プロレス」対「UWFインターナショナル」の全面対抗戦であった。メインイベントは、「武藤敬司 vs 高田延彦」戦であったが、最も注目を浴びたカードは「長州力 vs 安生洋二」戦であった。試合前、安生は「長州なら200%勝てる」とまで言い放って散々長州を挑発し続けた。そして試合はどうなったのかというと、長州はファンの鬱憤を思いきり晴らすかのように安生洋二をボッコボコにやっつけたのである。まるでそれは公開処刑かのように。そして試合後の控室で、この名言は生まれた。インタビュアーの「長州さん、切れましたか?」の問いに対して「切れてないですよ〜〜オレ切れさせたら大したものですよ〜〜切れてからが、本当の勝負ですよ〜」と、腕のテーピングを外しながらすごく冷静に語ったのである。プロレスがすごく面白かった時代。それは当時のプロレスファンにとって忘れられないシーンとなった。この話題、続く気がします。

2006/04/14(金)本末転倒2

本末転倒という言葉、辞書を引いてみると、私はちょっとばかし使い方を間違っているかも知れないのだが、気にせず続けさせていただく。所ジョージ氏のエピソードで、すごい本末転倒を思い出した。ある時、氏は自分の乗っている車(たぶんアメ者)の精巧なプラモデルを見つけたという。また、そのプラモデルは豊富なバリエーションでパーツが用意されていて、自由に改造やドレスアップなどが可能なのだそう。迷うことなく購入し、氏所有の車とそっくりに作ることにしたとのこと。凝りまくって、塗装のペイントも本物と同じものを取り寄せるという入れ込みよう。オプションのパーツをオーダーし、内装も外装も全く同じに仕上げようと試みた。ところが、ところが、ホイール(タイヤの部分ね)だけがどうしても同じものが見つからない。仕方ないので氏は自分の乗っている本物の車!のホイルを交換!し、プラモデルに合わせたというのだ。「プラモデルだからさあ。むやみに高いの履いてんのね。30万以上かかっちゃった。でも、仕方ないじゃん、そうしないと全く同じにならないんだもの」ですって。素敵です。所さん。

2006/04/12(水)本末転倒

前回からの続き。しばらくiPodを「未来のラジオ」として使用していたが、やはりもっと正しく活用したい欲望が出てくるのは当然のことだ。それでそれで、新しいMacを買ってしまいました。New Mac mini 1.66GHz Intel Core Duoである。すごくうれしいぞ。性能もすごいのだろうが、その操作性や設定の簡単さには驚かされる。私は以前から「.mac(ドットマック)」を利用しているので(ガックラもそのスペース)、「gakko 」と「パスワード」を入れるだけ!ですべての設定を終え、Webにつながって新しい情報をダウンロードし始めた。何て事だ!こんな簡単でいいのか!?ところが、このIntelのプロセッサーを搭載したMacは新しすぎて、音楽をはじめ、多くのアプリケーションが対応しておらず、私の場合、今のところiPodのサーバーとしてiTunesを操作する以外にほとんど使い道は見つからない。いわゆるひとつの本末転倒といった状況であるかも知れないのだが、まあいいぢゃないか。iPodの中身はあっという間に800曲を越えて、楽しい楽しい楽しいぞ。

2006/04/09(日)未来のラジオ

約1ヶ月程前のことである。勢い余ってiPodを買ってしまった。ホントに勢い余ってしまったのだろう。私の自宅のPC環境ではiPodの使用はほとんど不可能にもかかわらず買ってしまったのだ。音楽用に使っているi-BookにOS.10.4を入れたら何とか使えるかな?と、考えたりもしたが、05年1月5日の日記ぢゃを見るとOS.10.3をインストールして大変な目に遭っている。さらにはiPodの容量は30GB、i-Bookは10GBで、端末の大きさがサーバーの3倍というのは現実的ではない。さて、困った。とりあえずはすでにiPodを所有する友人に曲を入れてもらった。適当に入れてもらったのだがこれは楽しい。自分の知ってる曲、知らない曲がいろいろと演奏される。知らない曲も題名やアーティストは表示されるので不安は無いし、気に入ればもう一度聞くことも、気に入らなければ飛ばすこともできる。これは本当に楽しい。正に「未来のラジオ」を手に入れた感じであった。続きますね。

2006/04/03(月)へこんだくらいが

気が付くと4月である。あっという間に4月になってしまった。4月というと正に「春」というイメージであるが、いつまでも寒い気がする。前回の日記ぢゃで弱気な発言をしてしまったようで申し訳ない。いくつかの応援メールやら、なぐさめメールをいただいてしまった。「次回は必ず行きますから・・」なんていう気を使ってくれたものもある。心配かけたとしたらごめんなさい。ありがとうございます。大丈夫です。だが、中にはこんなメールももらったりする。先日のライブに来てくれた女性である。〜〜『ガッコは、ちょっぴりへこんだくらいが丁度良い。』私的には今日はか〜な〜り楽しかったよ!〜〜これってどうゆうこっちゃ?なんでやねん?でも、なんかちょっとおもしろいやないか。